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和歌・俳句で知る 樹木の楽しさ
実施日時
平成21年6月25日(木) 10:00〜12:00
場所
市川市市民会館
受講者数
41名
講師
小島
庶務
佐山・栗田・山内・高野・和波
オブザーバー
中野・西川・遠坂・山口・稲岡・松川・渋谷・小池・松田
概要
講座内容
:
スライド形式にて11種類の樹木に関する短歌、俳句を数首(句)説明して、生態系とは違う観点から樹木に関する色々な話、逸話、特徴、語源などの話をしました。
歌と樹木の説明などについて、歌は一首(一句)に絞って当日配布の資料から抜粋して下記します。
まずは歌集について
古くは日本最古の歌集として万葉集(20巻に4516首)があり、心の思いがおおらかに歌われており、恋歌に加え、自然の風景を素直に表現されています。日本の人々に愛されてきた叙情詩の原点です。1/3は植物を詠んでいます。
サクラ
「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂う 山桜花」
本居宣長
近世の医者であり国文学者であった、本居宣長61歳の歌である。日本人の心を素直に表した、桜を詠ったなかでも千古の絶賛と言われるほどの歌だが、この歌が太平洋戦争の時に利用され軍人の誉れのような扱いになった。
昭和19年10月レイテ沖海戦の時に海軍の大西滝次郎中将の発案で神風特別攻撃隊ができる。大和心と桜の散華を結び付け、この歌が評価され、各隊に「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」と名づけられた。
ツバキ
「落ちざまに 虻(あぶ)を伏せたる 椿かな」
夏目漱石
ツバキの花が落ちる瞬間に、飛んでいる虻を巻き込んで伏せたという意味の俳句である。ツバキの花ばかりでないが、花冠は柄に付いている根元の方が重く、高い枝から落ちるときには、上を向いて落ちる。ツバキの周辺に落ちている花を見れば、虫を伏せるように下向きのものは一つもない。
漱石は万に一つの偶然に出くわしたのか、想像したものか分からないが、この俳句の持っている軽妙さの味を感じる。漱石の弟子であった寺田寅彦は、随筆「思出草」の中で、この句について椿の花の落ちるのを観察し実験した結果、花が俯向(うつむ)きに落ち始めても空中で回転して仰向(あおむ)きになる傾向のあることを確かめることができたと書いている。
フジ
「瓶(かめ)にさす 藤の花ぶさ みじかければ 畳の上に とどかざりけり」
正岡子規
(子規が病床で臥(ふ)せった状態で目に写った状況がありありと感じられる)
正岡子規はこの歌を作った翌年の1902年9月19日に亡くなっておるが、結核で床に横たわって心身ともにつらい状態の時に作った歌。子規は雑誌「ホトトギス」に拠って写生俳句、写生文を首唱、写生を称賛してたが、見た感じそのままがうまく表現されてる。
キリ
「月かげに うかべる桐の ひろき葉に かすけき風の ありてゆらげる」
若山牧水
キリの特徴。昔は女の子が生れたら庭にキリを植えた。娘が育ち、やがてお嫁入りする時には、大きくなった庭のキリを切って箪笥も琴も下駄も、キリで作るのが、最高の親の思いであった。桐は成長が早い木である。20歳になる前に幸せな結婚を考えて、その時にちゃんと材が利用出来る様に、娘の成長に合わせるように育ってくれる木である。自分の娘もそこまで無事に元気で育って欲しいという親心が、庭に桐を植える気持ちになったものと思う。
ネムノキ
「象潟(きさがた)や 雨に西施(せいし)が ねぶの花」
松尾芭蕉
元禄2年6月16日、象潟にて雨に打たれた「ネムの花」を詠んだ。昔はネムノキをネブと呼んでいた。(象潟はいま雨、その雨に濡れた折りしもの合歓の花の表情は中国の伝説の美女西施が憂いを含んで目を閉じてるようだ)「奥の細道」の旅で芭蕉は、松島とともに象潟を見学するのが、大きな目的の一つだったようでつぎのような文を残している。 (「奥の細道」の紀行文、現代語訳、抜粋)
全体に潟の広さは縦横一里ほどで、その様子は松島に似ているがまた違っている、松島は美人が笑っている様な感じだが象潟は恨んでいるような感じがある。寂しい感じに悲しみが添うてこの地の様子は美人が心を悩ませているような感じである。
ケヤキ
「早来(とくき)ても 見てましものを 山城の 高(たか)の規群(つきむら) 散りにけるかも」
(万葉集) 高市黒人(たけちのくろひと)
(もっと早く来て見るべきだった 山城の多賀のケヤキの林はもう散ってしまっているなあ)
多賀は京都府綴喜郡(つづきぐん)井手町多賀のあたりで、規郡(つきむら)はケヤキの林のこと。ここでは紅葉したケヤキ林をさしている。
槻(つき)。古い時代は、ケヤキはツキ(槻)といわれ、「古事記」にも「万葉集」にも槻の名前が使われている。万葉集には全てツキの名前で出てくる、ツキを詠んだ歌が9首ある。ケヤキと呼ばれるようになったのは室町時代かららしい。ケヤキの漢字は「欅」であり、ツキは「槻」が広く使われている。
スギ
「古(いにしえ)の 人の植えけむ 杉が枝に かすみたなびく 春は来ぬらし」
(万葉集) 柿本人麻呂
(昔の人が植えたのでしょう、その杉の枝に霞がたなびいています、春が来たのでしょう)
「日本書紀」「風土記」「万葉集」などにも現れ、古くから有用材として植栽されてきた。この為、名木、老樹、巨木といわれるものが多い。スギの語源は幹が真直ぐに伸びる木だから(直木=スグキ)という意味と言われている。
杉は真直ぐで神が依り代とした神木としても崇められ多くの神社に植えられ、日本人には木の重みを物語っている。
コブシ
「見はるかす 山腹なだりに 咲きてゐる 辛夷の花は ほのかなるかも」
斉藤茂吉
コブシは一般に季節の花として、農村の生活民俗のなかにとけ込んでいる。村里生活ではコブシを暦の代わりにしていた。コブシの開花は地方によっては苗代づくりなどの農作業の時期を決める目安として重要視され、「田打ち桜」「種蒔き桜」と呼ばれてもいる。サクラは農耕民族のイネの神の依り代として崇められた為、いろいろな春の花の呼び名ともなったようだ。コブシの場合もサクラと花時が重なるのでサクラと呼んだ方言が多い。
ヤマブキ
「七重八重 花は咲けども 山吹の みのひとつだに なきぞかなしき」
(後拾遺和歌集) 兼明(かねあきら)親王
室町時代、太田道潅が鷹狩りに出た時にひどい雨に降られてしまい、蓑でも借りれないかと、近くの農家に立寄った。すると一人の少女が出てきて黙って「山吹の花」を差し出した。花の意味がわからぬ道潅は不思議がってその花を持ち帰り、その話を家臣にしたところ、上記のような古歌があり、少女は蓑一つない貧しさを山吹の実がないとの例えとして伝えたのだと分った。道潅は、少女の機智に感心すると共に自分の教養の無さを恥じて、その後、大いに学問に励み、和歌の大家になったという話である。
アジサイ
「紫陽花の 八重咲く如く やつ代にを いませわが背子(せこ) 見つつ偲(しの)はむ」
(万葉集) 橘諸兄(たちばなのもろえ)
アジサイの学名。アジサイをはじめて世界に紹介したのはオランダのシーボルトでドイツのツッカリーニと共同で、Hydrangea otaksaと命名し、日本での植物研究の集大成である「フロラ・ヤポニカ」に発表した。当時シーボルトはこの花にずいぶん感動したようで、日本で愛した妻の愛称「おたきさん」をこの花の学名にあてたという。お滝さんは最初は長崎丸山の遊女「其扇(そのおおぎ)」だったが出島に出入りして、シーボルトの妻になる。二人の間に娘が出産、娘の楠本イネは日本最初の女医になった。シーボルトはお滝さんをいつも「オタクサ」と呼んでいた。
ウノハナ
「卯の花を かざしに関の 晴れ着かな」
河合曾良(かわいそら)
曾良は芭蕉の、「奥の細道」に随行した門人。奥州の白河の関での歌。
この関は能因法師の名歌に「都をば 霞とともに たちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関」というのがあるが、その昔、さる官人が敬意を表し、わざわざ衣冠を改めて関を通った故事を念頭において、自分はそんな身分ではないが、この可憐な卯の花を髪に挿して、それを晴れ着にして関を越えるのだとユーモアをこめて詠んだ句である。
(報告:小島)